『老子』の自然:おのずから
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『老子』で「自然」が出る五か所を、「おのずから」と「自然界」の二通りで当てはめて比べ、『荘子』の近い言い方も確かめて、原文・伝統的な読み・現代の借用を分けます。
要点を先に約9分で読めます
『老子』の「自然」は二字に分けて読みます。自は自分、然はそう。合わせて「おのずからそうである」状態を言い、山水や天気のある「自然界」は、のちに広まった意味です。
- 「自然」は自(自分)と然(そう)に分かれ、外から押されず、物事がおのずからそうなる状態を言います。
- 通行本の『老子』でこの語が出るのは第17・23・25・51・64章だけで、五か所とも「おのずから」で読めます。
- 「道は自然を手本にする」は、道の上にはもう寄りかかる対象がなく、道は自分の在り方で動く、と読むのがふつうです。

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一つの語を、二字に分けて読む
いま「自然」と言えば、山や川、草木、天気といった自然界を思い浮かべるのがふつうです。『老子』の「自然」は、読み方を変える必要があります。これは二字の語で、「自」と「然」に分かれます。
語義の対照図:『老子』の五つの用例は左の読みですべて通ります。右は現代でいちばん一般的な意味です。
「自」は自分、「然」は「そう」「そのように」で、「当然」「果然」の「然」と同じです。合わせて「自然」は「おのずからそうである」こと。文の中では状態や在り方を述べます。物事が自分の力で成り、誰も押さず、命じず、手配もしていない、ということです。日本語の「自然」も、仏教の文脈などでは「じねん」と読まれ、「おのずからそうなる」意味で使われてきました。
まず字を分ける
- 自
- 自分。物事そのもの。
- 然
- そう、そのように。「そうだと認める」の意味もあります。
- 自然
- おのずからそうである。外からの手配なしに、本来の姿で成ること。
五章の原文、五つの用例
通行本の『老子』は全八十一章ですが、「自然」が出るのは五章だけです。第17・23・25・51・64章。馬王堆帛書乙本でも、この五か所にこの語があります。一覧のあと、一か所ずつ読みます。
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「おのずから」の感じが最も分かりやすいのは第17章です。
最上の君主は、下の者がその存在を知っているだけだ。……ゆったりとして言葉を惜しみ、仕事が成し遂げられると、民はみな「私たちはおのずからこうなった」と言う。
最上の君主のもとでは、民はその人がいることを知るだけです。君主はゆったりとして言葉を惜しみ、事が成ると、民は「自分たちでそうなった」と言います。この「自然」は民の言葉です。事を行った人はいるのですが、押されたと感じさせないので、みなが自分で成したと感じる。
ほかの三か所は、それぞれの前後関係の中で読みます。
ほかの三か所
言葉少ないことは、おのずから
冒頭の語は、伝統的に言葉が少ないこと、つまり号令が少ないことと読みます。続く例は、疾風は朝のうちに終わらず、豪雨は一日続かない、というものです。天地の激しい働きでも長続きしないのだから、まして人はなおさらだ、と述べます。
誰も命じないのに、いつもそうである
直前に、万物はみな道を尊び徳を貴ぶとあります。その尊貴は誰かが命じて生じたのではなく、いつもそうです。「誰も命じない」とは文字どおり誰も命令していないこと、「自然」はその要約です。
万物のおのずからを助け、あえて為さない
聖人は万物がそれぞれの道を行くのを助け、無理に為そうとはしません。この句は「自然」と「無為」を結んでいて、次の記事でもう一度出会います。
「道は自然を手本にする」:誰が誰を手本にするのか
五か所のうち、いちばんよく引かれ、いちばん読み違えられやすいのは第25章です。
混じり合って一つになったものがあり、天地より先に生まれた。……人は地を手本とし、地は天を手本とし、天は道を手本とし、道は自然を手本とする。
四つの「手本にする」は一本の鎖のようです。原文の動詞は、手本にする、基準にするという意味で読むのがふつうです。人は地を、地は天を、天は道を基準にし、道は「自然」を基準にします。
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まず前半に注目します。ここに描かれているものは「天地より先に生まれた」。「自然」が山水や天地のある自然界なら、道は自分より後のものを手本にすることになります。そこでふつうの読みは、この句は道で終わり、上にもう頼りを探さない、というものです。「自然を手本にする」とは、道が自分のおのずからの在り方で動くことだと読みます。
読み違えの二つの型
「自然」を道の上の第五の位とする
四つの「手本にする」が並ぶので、「自然」を第五の対象、道の上に立つものと思いがちです。ふつうの読みは逆で、鎖は道で終わり、「自然」は道自身の在り方を述べています。
「道は大自然を手本にする」と読む
こう読むと、道は山水と天空を手本にすることになります。しかし同じ章は道を「天地より先に生まれた」と言い、天地はその後です。
当てはめテスト:五つの句、二通りの読み
どちらの読みが原文に合うかを見る一番手っ取り早い方法は、五つの句に二つの読みを当てはめることです。「自然界」の列が調べるのはただ一つ、自然界という意味を入れても文が通るかどうかです。
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第17・23・51章に「自然界」を入れると、どれも妙な文になります。「民はみな、私は自然界だと言う」「言葉少なに自然界」「誰も命じないのに、いつも自然界」。第25章は読めますが、前の節の「天地より先に生まれた」とぶつかります。第64章の「万物の自然」は二通りに取れます。万物が置かれた自然界か、万物それぞれの本来の姿か。後者は「おのずから」の読みで、直前の「助ける」「あえて為さない」ともよく合います。
『荘子』の近くの言い方と、現代の借用
『荘子』には「自然」という字そのものはあまり出ませんが、近い言い方は少なくありません。「秋水」には「天」と「人」を具体的に分ける一段があります。
牛や馬に四本の足があること、これを天という。馬の頭に端綱を付け、牛の鼻に穴を開けること、これを人という。
牛や馬は四本の足を持って生まれ、誰も手配していません。これが「天」です。端綱や鼻輪は外から加えたもので、これが「人」。この段に「自然」の字はありませんが、「おのずから」と並べて読めます。片方は自分で育った姿、もう片方は外から加えられたもの。
「斉物論」には、問いの形をした一句があります。
万の穴に風が吹きつけて、音はそれぞれ違う。それぞれを自分自身にさせ、すべて自分から取らせている。では、それを揺り動かしているのは誰か。
風が無数の穴を渡ると、穴ごとに別の音が出ます。「自分自身にさせ」「自分から取る」は、どの穴の音も穴自身から出ていることを言います。最後の問いは、揺り動かすのは誰かと尋ね、答えは読者に残されています。
『荘子』でこの語そのものは少なく、ここで扱う篇では「秋水」の一句だけです。そこで「然」は「正しいと認める」の意味で、堯も桀もそれぞれ自分を正しいとして相手を非難する、と読むのがふつうです。この用例も、字を分けて使っています。自分でそうだと認める、ということです。
最後に三つの層を分けて並べると、「自然」に出会ったときにどの層に立っているかが分かります。
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「自然に任せる」「自然に帰る」といった言い方は、この語の一つの層を借りたもので、今日の用法です。『老子』の「自然」を思想全体の中に置いて読むには、道と徳:老子は何を語ったかから、無為:なぜ「ただ寝そべる」ことではないのかへ進んでください。「それぞれが自分を正しいとする」ことを『荘子』がどう扱うかは、斉物論で読めます。
誰がおのずからなのか
文の主語を探します。民か、万物か、道か。「自然」はその主語を述べています。
状態か、場所か
「山水のある場所」を文に入れてみて、それでも意味が通るときに初めて、その読みを考えます。
誰かが押していないか
前後に「誰も命じない」「あえて為さない」のような語があるかを見ます。押されないことが「おのずから」の核です。
読んだあとの疑問
「道は自然を手本にする」とは、道が大自然を手本にするということですか。
ふつうの読み方ではありません。同じ章は、この「有物」を「天地より先に生まれた」と述べ、山水の世界はその後に来ます。自然を自然界と取ると、道が自分より後のものを手本にすることになります。道で連鎖が終わり、それ以上の頼りを探さない、と読むほうが素直です。
「自然に任せる」とは、何もしないことですか。
「自然に任せる」は後世の言い回しで、努力をやめる意味でも使われます。『老子』第64章は「万物の自然を助け、あえて為さない」と述べます。「助ける」はそれ自体が行いで、物事がすでに向かっている方向を越えないという意味です。
『荘子』にも「自然」という語はありますか。
ごくわずかです。「秋水」に堯と桀を述べた一句があり、そこで「然」は「正しいと認める」の意味、つまり堯も桀もそれぞれ自分を正しいとして相手を非難する、と読むのがふつうです。「斉物論」にはこの語はありませんが、「それぞれが自分から取っている」という言い方があります。
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