知足と知止:欲望と限度
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『老子』第44・46・33・9・12章から、知足は「どれだけで足りるか」、知止は「どこで止まるか」を問うと確かめ、節度・立ち止まり・消極的な自制を分けて読みます。
要点を先に約8分で読めます
知足と知止は、それぞれ一つの問いに答えます。知足は「どれだけで足りるか」、知止は「どこで止まるか」。どちらも何もしないことではなく、第33章は「足りることを知る者は富む」のすぐ隣に「努めて行う者は志がある」と記します。
- 知足は「どれだけで足りるか」(第33・44・46章)、知止は「どこで止まるか」(第32・44章)を問います。前者は持つこと、後者は行うことの物差しです。
- 第44章は三つの問い(名と身、身と貨、得と亡)を置き、次に「愛しすぎれば必ず大きく費え、蓄えすぎれば必ず深く失う」と勘定して、知足と知止へ進みます。
- 原文は知足と進むことを並べます。第33章で「足りることを知る者は富む」の次の句は「努めて行う者は志がある」で、知足は足を止めよとは求めていません。

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一つは量を、一つは場所を問う
第44章は「足りることを知れば辱められない」と「止まることを知れば危うくない」を隣り合う二句に置きます。似て見えますが、問いは別です。「知足」は「どれだけで足りるか」、「知止」は「どこで止まるか」を問います。
原文の対照図:左は行き過ぎの代価、右は節度の結果です。句は第44章と第46章に出ます。
上の表は第44・46章の句を並べたものです。左は行き過ぎの代価、右は節度の結果。左に「愛しすぎれば必ず大きく費え、蓄えすぎれば必ず深く失う」、右に「足りることを知れば辱められず、止まることを知れば危うくない」とあります。これらの章を読むには、まず二語を分けます。
三つの語を分ける
- 知足
- 知は見分けること、足は足りること。何を足りるとするかを見分ける、持つことの物差しです。第33・44・46章に出ます。
- 知止
- 止は止まること。どこで手を止めるかを知る、行うことの物差しです。第32・44章に出ます。
- 欲
- 欲しがること。第46章は「得ようと欲すること」、第19章は「私心を少なくし、欲を減らす」と書きます。
第44章:三つの問いと、一つの勘定
第44章はわずか数句です。三つの問いを置き、次に勘定をします。
名と身と、どちらが親しいか。身と貨と、どちらが重いか。得ることと失うことと、どちらが害か。だから、愛しすぎれば必ず大きく費え、蓄えすぎれば必ず深く失う。足りることを知れば辱められず、止まることを知れば危うくない。そうして長く保つことができる。
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どの問いも、二つのものを比べています。名声と自分自身のどちらが近いか、自分自身と財貨のどちらが大事か(ここの「多」は、より重いの意味に取られることが多い)、得ることと失うことのどちらが傷つけるか。原文は一つずつ答えず、すぐ勘定に進みます。愛しすぎれば費えは大きく、蓄えすぎれば喪失は深い。足りることを見分ければ辱められず、止まることを知れば危うくなく、そうして長く保てる、と。
この勘定で、「費」と「亡」は代価、「辱」と「殆」は結果、「長久」は原文が挙げる益です。
どこで止まるか:第9章と第32章
知止は行いの物差しです。第9章は、いくつもの具体的な画面でそれを語ります。
持ってそれを満たすのは、やめるのに及ばない。叩いてそれを尖らせれば、長くは保てない。金玉が堂に満ちれば、守りきれない。富み貴くして驕れば、自ら災いを残す。功を遂げて身を退くのが、天の道である。
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「持って満たす」の一つの読みは、杯を持って注ぎ、縁まで満ちてもやめない、というものです。もっと早く止めたほうがよい。「叩いて尖らす」は、伝統的に、叩いて尖らせ、さらに研ぐ意味に読み、尖るほど折れやすくなります。前の四句は行き過ぎを描き、節度を描くのは最後の句だけです。「功を遂げたら身を退く」は、まず功を遂げ、そのあとで退きます。
第32章では、知止は「名」と結びついています。
作り始めたところに名が生まれる。名がいったん立てば、そこで止まることを知るべきだ。止まることを知れば危うくない。
「制」は作り始めること、「名」は伝統的に名分・称号・制度と読まれます。それが立ったら、どこで止まるかを知るべきだ、と言うのです。この句は、第44章の「止まることを知れば危うくない」と並べて読めます。一方は「止まることを知るべきだ」と言い、他方は「危うくない」という結果を言います。
第12章と第46章:欲は何に向かうか
「欲」は何に向かうのか。第12章が名指ししています。
五色は人の目をくらませ、五音は人の耳を聞こえにくくし、五味は人の味覚を狂わせ、馬を駆っての狩りは人の心を狂わせ、得がたい財貨は人の行いを妨げる。
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原文は五つの「多さ」を五つの害として述べます。目がくらみ、耳が鈍り、味が分からなくなり、追い立てる狩りで心が乱れ、珍しい財貨が行いを妨げる。続く句は「腹」と「目」に落ちます。「だから聖人は腹のために働き、目のためには働かない。あちらを捨ててこちらを取る」。「腹のために働く」は伝統的に実のある必要のためと読み、「目のためには働かない」は目を奪うものを追わないことです。これが「足りる」の一つの基準です。
第46章は、話を個人から天下に移します。
天下に道があれば、駿馬を退けて田を治めさせる。天下に道がなければ、軍馬が郊外で生まれる。禍は足りることを知らないことより大きなものはなく、咎は得ようと欲することより大きなものはない。だから、足りると知って得る「足りる」は、いつも足りるのだ。
最初の二句は天下の話です。道があるときは走る馬が退けられて田を治め(田を治め肥やす、という意味の語)、道がないときは郊外で戦馬が生まれる。そのあとに「禍」と「咎」が来ます。これを個人の暮らしの中で読むのは、後世によくある借用です。最後の句は、同じ語を重ねています。前半の「足りる」は見分けた上での判断、後半の「足りる」は実際に足りていること。見分ければ、いつも足りる、と。
節度・立ち止まり・消極的な自制
ここまで読むと、三つのことが一つに混ざりやすくなります。節度、立ち止まり、消極的な自制です。第33章が傍証になります。
人を知る者は賢く、自分を知る者は聡明だ。人に勝つ者は力があり、自分に勝つ者は強い。足りることを知る者は富む。努めて行う者は志がある。自分の居場所を失わない者は長く続く。死んでも滅びない者は長寿である。
この章は対の句で進みます。人を知ることと自分を知ること、人に勝つことと自分に勝つこと。「自分に勝つ者は強い」は自分を律することで、すでに力を要します。「足りることを知る者は富む」の次が「努めて行う者は志がある」で、努めて進む者に志があると言います。原文は、知足を足を止めることとは書いていません。句を三つの列に戻すと、違いが見えます。
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節度は「量」の見極め、立ち止まりは「所」の見極めで、どちらも「行う」の範囲にとどまります。消極的な自制は事を行うことを手放すことで、原文には対応する句がなく、あるのは「努めて行う者は志がある」と「功を遂げたら身を退く」です。限度を水の比喩の中で読むなら柔弱と不争、無理に押し通さないことが行動にどう表れるかは無為、道と徳そのものの読み方は道と徳へ。
量か、場所か
句が問うのは「足りるか」か、「どこで止まるか」か。前者が知足、後者が知止です。
次に「努めて行う」があるか
隣り合う数句まで読みます。第33章では、知足の次の句が「努めて行う者は志がある」です。
個人か、国か
第32・46章には侯王と天下という背景があります。個人の暮らしに置くのは借用なので、そう断って使います。
読んだあとの疑問
「知足」は「足りることを知れば楽しい」と同じ意味ですか。
同じではありません。「足りることを知れば楽しい」は後世の言い回しで、「足りる」を気持ちとして読みます。『老子』が書く結果は別で、足りることを知る者は「富む」(第33章)、足りることを知れば「辱められない」(第44章)、足りると知って得る「足りる」は「いつも足りる」(第46章)。話題は足りるか足りないか、後に害が残るかで、気分ではありません。
知止とは、途中でやめることですか。
違います。第9章は「功を遂げたら身を退く」と言い、まず功を遂げ、それから退きます。「持って満たすのは、やめるに及ばない」は、すでに満ちたものにこれ以上足すな、という話です。この「止」は、ふさわしい所で止まることで、中途半端に投げ出すことではありません。
足りることを知ると、向上心がなくなりますか。
原文からはそう読めません。第33章は「足りることを知る者は富む」と「努めて行う者は志がある」を隣に置き、後者は努めて進む者に志があると言います。「禍は、足りることを知らないことより大きなものはない」(第46章)が戒めるのは、際限なく欲しがることの結果で、努力そのものではありません。
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