観卦:風が地の上を行く、観ることと観られること
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観は第二十卦で、風が地の上を行き、陽爻は最上の二本、陰爻は下の四本です。卦辞は祭礼で「手を洗い、まだ供えない」瞬間に止まり、六つの爻辞は観る人と観られるものを次々に替えていきます。
要点を先に約6分で読めます
観の字面は観ること。卦辞は祭礼の初めの手洗いで止まり、彖伝は上が観られ下が感化されると言い、爻辞では観る対象が子どもの目の前から「わが生」「その生」へと移ります。
- 観は巽(風)が上、坤(地)が下で、陽爻は最上の二本、陰爻は下の四本。彖伝は「大観が上にあり」「下の者は観て感化される」と言い、卦の形でも観られるものが上、観るものが下にある。
- 卦辞「盥して薦めず、孚ありて顒若たり」は、手を洗い終え供え物はまだの瞬間で止まる。大象は向きを逆にし、先王が四方を巡って民を観に降りる。
- 六つの爻辞の「観」は、順に童観・窺観・わが生を観る・国の光を観る・再びわが生を観る・その生を観る。九五の「わが生」を、小象は「民を観ること」と解く。

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風が地の上を行く:最上の二本が陽、下の四本が陰
観は第二十卦で、下卦が坤(地)、上卦が巽(風)です。いちばん上の二本、九五と上九が陽爻で、下の四本はすべて陰爻。説卦伝は「巽は入る」「坤は従う」と言います。風はどんな隙間にも入り込み、地は従順にすべてを載せる。その地の上を風が吹き渡る姿が、この卦の象です。
観とその互卦の剥:二本あった陽爻が、最上の一本だけになる。
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観を読む前の三つの語
- 観
- 字面は観ること。この卦では、観る動作(卦辞と爻辞)でもあり、観られる眺め(彖伝の「大観が上にある」)でもある。
- 盥と薦
- 祭礼で、盥は手を洗うこと、薦は供え物を捧げること。卦辞の「盥して薦めず」は、この二つの間の瞬間を言う。
- わが生・その生
- 爻辞の「生」が何を指すかは、暮らし・行い・民など読みが分かれるので、ここでは字面のままにする。「わが生」は字面では「わたしの生」、「その生」は「彼の生」。
下に陰が四本、上に陽が二本。大勢が顔を上げて、最上の二人を見上げているような形です。彖伝が最初に述べるのも、この配置です。
卦辞:手は洗った、供え物はまだ
観の卦辞は、ごく短い一文です。
手を洗ったが、まだ供え物は捧げない。誠があり、厳かに仰ぎ見る様子である。
「盥」は祭りの前の手洗い、「薦」は供え物を捧げること、「孚」は誠実さ、最後の語は伝統的に厳かに仰ぎ見る様子と読まれます。通して読むと、卦辞は祭礼の二つの段階の間に立っています。手は洗い終わり、供え物はまだ並べていない。伝統的には、いちばん厳かなのは冒頭の一瞬で、観る人はそこまでで納得してしまう、と理解されます。
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彖伝は、この卦辞を卦の形に重ねて読みます。
大いなる眺めが上にある。従い、そして穏やかに入り、中正にして天下を観る。観とは「手を洗ったが供え物はまだ、誠があり厳かに仰ぎ見る」ことで、下の者は観て感化される。天の神妙な道を観れば、四季は少しも狂わない。聖人はこの神妙な道によって教えを立て、天下は服する。
「大観が上にある」は、最上の陽爻が観られる対象だということ。「従い、穏やかに入る」は下が坤、上が巽であること、「中正」は九五のことで、上卦の真ん中にあり、陽爻が陽の位にあります。「下の者は観て感化される」がこの段の要で、下の者は観ているうちに変えられていく。彖伝はそこから観る対象を天へ引き上げ、天の神妙な道を観れば四季は狂わず、聖人も同じやり方で教えを立てて天下が服する、と続けます。「神妙な道」は、天が跡を残さずに運行する理のことと、伝統的には読まれます。
大象:風が地の上を行き、先王は四方を巡る
大象は、向きを逆にします。
風が地の上を行く。これが観。先王はこれにならい、四方を巡って民を観、教えを設けた。
大象の書き方は、先に象、次に行いです。この卦の主語は「先王」。風は地の上を通り、どこも漏らしません。「省方」は四方を見回ること、「民を観て教えを設ける」は、民をよく観てから教える、ということです。
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同じ「観」の字が、彖伝では下から上を仰ぐ向きになり、大象では上から下へ降りて観る向きになります。この卦は、どちらの向きも書き込んでいます。
六つの爻辞:観る人も観るものも移っていく
六つの爻辞のどれにも「観」の字がありますが、観る人と観られるものは毎回違います。
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初六は最下位で、「童観」。子どものように、目の前のものしか見ない。爻辞は二通りに評し、小人には咎がなく、君子には恥となる。小象ははっきり「小人の道」と言います。六二の「窺観」は、隙間からのぞく見方で、「女性が正しさを守るのによい」とあり、小象は「それも恥ずべきことである」と言います。
六三は目を自分に向けます。「わが生を観て、進むか退くか」。観たあとで、進むか控えるかを選ぶ。小象は「道を失っていない」。六四の「国の光を観る」は、国の輝きを観ることで、「王の賓客となるのによい」。小象は「賓客として尊ばれる」。九五は再び「わが生を観る」ですが、続くのは「君子に咎はない」で、小象は「民を観ること」と解きます。上九では「わが」が「その」に替わり、「その生を観る」。小象は「志はまだ落ち着かない」と評します。
観の隣の卦:臨・剥・大壮、そして序卦伝の「観るべき」
観をひっくり返した綜卦は臨で、陽の二本が最下位へ移ります。六本すべての陰陽を替えた錯卦は大壮で、こちらは陰の二本が最上位に来ます。互卦は剥で、取り方は六十四卦の構造を参照してください。観の陽爻のうち残るのは、最上の一本だけです。
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序卦伝は、観を直前の卦につなぐのに、ごく短い一句を使います。
物が大成して、そののちに眺められる。
育ち上がったものには、眺める値打ちが生まれる。観の次は噬嗑で、序卦伝の説明は、観てはじめて合わさるものが生まれる、というものです。
読んだあとの疑問
「盥して薦めず」はどういう意味ですか。
盥は祭りの前に手を洗うこと、薦は供え物を捧げることです。卦辞はその二つの間に立ち、手は清めたが供え物はまだ、という場面です。伝統的には、厳かさは冒頭ですでに現れていて、観る人はそこで信じてしまう、と読まれます。本文が与えるのはこの数文字だけで、あとは読みです。
六三と九五はどちらも「わが生を観る」なのに、小象の評が違うのはなぜですか。
六三は後に「進むか退くか」が続き、小象は「道を失っていない」と評します。九五は後に「君子は咎なし」が続き、小象は「民を観ること」と評します。同じ三文字が、一方では進退の選択に、もう一方では民の様子に落ちています。
観とは、単に観察のことですか。
字面は観ることですが、彖伝の「大観」は観られる眺めに近い読みです。この卦では同じ一字が動作でもあり対象でもあるので、各所でまず、誰かが観ているのか、何かが観られているのかを確かめます。
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