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DA-009 / 道家思想

斉物論:視点が出会うとき

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視点が出会うとき、判断の限界はどこか

三つの籟、王倪の三つの問い、「彼」と「是」、長梧子の「誰が裁くか」、朝三暮四、罔両と影、胡蝶の夢を読み、言葉と判断の限界がどこにあるか、そしてそれがなぜ「何でもよい」ではないのかを見ます。

要点を先に約9分で読めます

『斉物論』は、「万を吹くに同じからざる」籟、住まい・味・美にそれぞれの「正」があること、「彼と是は並び生ずる」という説を通して、見方がどこに立つのか、争いになぜ裁き手がいないのかを論じますが、すべての判断が同じだとは言っていません。

  • 住まい・食べ物・美しさについて、人・泥鰌・猿・鹿・魚や鳥にはそれぞれの「正」があり、誰の基準が正しいかには共通の答えがありません。
  • 「彼」と「是」は寄りかかり合い、どちらの側も自分の側を「是」と呼びます。本文の答えは「明で照らすに越したことはない」で、道枢の「環の中」に立つよう求めます。
  • 長梧子は、あなたと同じ者、私と同じ者、二人と違う者、二人と同じ者と、裁き手の候補を順に退け、そのたびに「どうして裁定できようか」と言います。
18秒で確認:三つの響き、人と鳥獣それぞれの基準、そしてこの篇を読むときの三つの問い。

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荘子の篇章:内篇・外篇・雑篇、まず地図を見てから原文へ ↗

逍遙遊:大鵬と小鳥は何を争っているのか、寓話の順に読む ↗

「私は自分を喪った」:三つの籟から

『斉物論』は、南郭子綦が机にもたれて座り、天を仰いでゆっくり息を吐き、連れ合いを喪ったかのような姿から始まります。弟子の顔成子游がどうしたのかと問うと、彼は「いま、私は自分を喪った」と答えます。続いて三つの「籟」、つまり三つの響きを語ります。

関係図:人は成心によって論を立て、是非で互いを否定し、裁く者はいない。『斉物論』の答えは順に、「明で照らすに越したことはない」、環の中を得ること、「是非で和して」両行することである。元の図を開いて拡大する

関係の図:上の段は争いの来歴、下の段は本文が示す三段の答えです。各段に対応する本文の句があります。

上の図は篇全体の関係図です。まず、本文が最初に広げる絵、三つの籟から見ます。

天籟万物を吹き、各自を自ら鳴らせる地籟「衆竅」:風が多くの穴を渡る人籟「比竹」:人が吹く管本文の順序で、人から地、天へ
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天籟万物を吹き、各自を自ら鳴らせる地籟「衆竅」:風が多くの穴を渡る人籟「比竹」:人が吹く管本文の順序で、人から地、天へ
本文の順序で、人から地、天へ

人籟は「比竹」、並べた竹の管で、人が吹きます。地籟は「衆竅」で、風が起こると山林のさまざまな穴がいっせいに鳴ります。鼻のようなもの、口のようなもの、耳のようなものがあり、音もそれぞれ違って、「激しい音、叱る音、吸う音、叫ぶ音」。天籟については、子綦は定義を述べず、ただ問い返します。

万物を吹くのに、それぞれ違っていて、しかも各自が自分で鳴るようにさせる。みな自分で取るのだ。鳴らせているのは、いったい誰か。

『荘子』内篇「斉物論」(現行テキストから訳出)

穴はそれぞれ自分の音を出し、風はそのどれも選びません。「私は自分を喪った」は、伝統的には自分に執着する「我」を手放すことと読まれることが多いです。本文はここを説明せず、すぐ三籟へ移ります。

誰の基準が「正」か:王倪の三つの問い

齧欠が王倪に問います。「あなたは、物がみな同じく是とするものを知っていますか。」王倪は三度続けて「どうして私に分かろうか」と答え、そのあと日常の三つの事を逆に問います。

住まいどこが正しいか人:湿地で腰痛泥鰌:そうでない猿:木上は平気味何が旨いか人:家畜の肉鹿:草蝍蛆:蛇を甘しとする梟:鼠を好む美誰が美しいか人:毛嬙・麗姫魚:見て深く潜る鳥:見て高く飛ぶ鹿:見て駆け去る三つの問い、どれも複数の種がそれぞれの側に立つ
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住まいどこが正しいか人:湿地で腰痛泥鰌:そうでない猿:木上は平気味何が旨いか人:家畜の肉鹿:草蝍蛆:蛇を甘しとする梟:鼠を好む美誰が美しいか人:毛嬙・麗姫魚:見て深く潜る鳥:見て高く飛ぶ鹿:見て駆け去る三つの問い、どれも複数の種がそれぞれの側に立つ
三つの問い、どれも複数の種がそれぞれの側に立つ

三つの問いは、どれも複数の側が答えます。湿地では人は腰を痛めても泥鰌は平気で、食べ物では人・鹿・蝍蛆(「帯」を好む。伝統的には蛇と解される)・梟がそれぞれ好みを持ち、美では人が毛嬙・麗姫を美とするのに、魚・鳥・鹿は見て逃げます。

私から見れば、仁義のはじまり、是非の道筋は、入り乱れて混ざり合っている。私にどうして、その違いが分かろうか。

『荘子』内篇「斉物論」(現行テキストから訳出)

「入り乱れて混ざり合っている」という語は、物事が四方に交わるさまを描きます。王倪の言うことは、誰もが認める基準がなければ、この是非の絡まりを、それで仕分けることはできない、ということです。

彼と是:立つ場所が違えば、呼び名も違う

「物はどれも『彼』であり、どれも『是』である。『彼』の側からは見えず、自分の側から知れば分かる。」「彼」の側からは「是」の側の物が見えず、自分の側からなら見えます。儒家と墨家の争いが分かりやすい例で、それぞれ「相手が非とするものを是とし、相手が是とするものを非とする」。

「彼」と「是」は寄りかかり合う彼は是より是がなければ彼もないまた是も彼による彼がなければ是もない同じく生と死は並ぶ可と不可も並ぶ「明で照らすに越したことはない」対のない所二つに分かれないこれを道枢環の中を得るそして無窮応じられるまず「彼」と「是」がどう生じ合うか、次に本文の示す出口
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「彼」と「是」は寄りかかり合う彼は是より是がなければ彼もないまた是も彼による彼がなければ是もない同じく生と死は並ぶ可と不可も並ぶ「明で照らすに越したことはない」対のない所二つに分かれないこれを道枢環の中を得るそして無窮応じられるまず「彼」と「是」がどう生じ合うか、次に本文の示す出口
まず「彼」と「是」がどう生じ合うか、次に本文の示す出口

「彼」と「是」は同時に現れる一対の指し示しで、こちら側があるから、あちら側があります。生と死、可と不可の言い換えも、同じ理です。争う人はいつも自分は「是」に立ち、相手は「彼」に立つと思いますが、立つ場所を入れ替えれば、呼び名も入れ替わります。

彼と是が対を得ない所、これを道枢という。枢がはじめてその環の中を得れば、無窮に応じることができる。

『荘子』内篇「斉物論」(現行テキストから訳出)

枢は戸の軸で、「環の中」は軸が回る丸い穴の真ん中です。伝統的な読みでは、軸が穴の真ん中に立てば戸はどちらへも開閉して応じられ、どちらにも偏らない者だけが「是」「非」の尽きない変化に応じられます。これが「明で照らすに越したことはない」の意味で、一方の「是」でもう一方を押さえつけるのではありません。

言葉と弁論の限界:誰が裁くのか

「そもそも言葉は風が吹くのとは違う。言う者には言うことがあるが、その言うところはまだ定まっていない。」話す人の心には言いたいことがあっても、言うところは「まだ定まっていない」のです。後の段で長梧子は、誰も避けて通れない問いを出します。二人が争うとき、誰が決めるのか。

裁き手\理由候補本文の理由①あなたと同じ者すでにあなたと同じ②私と同じ者すでに私と同じ③二人と違う者すでに二人と違う④二人と同じ者すでに二人と同じ四人の候補、どれも答えは「どうして裁定できようか」
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裁き手\理由候補本文の理由①あなたと同じ者すでにあなたと同じ②私と同じ者すでに私と同じ③二人と違う者すでに二人と違う④二人と同じ者すでに二人と同じ四人の候補、どれも答えは「どうして裁定できようか」
四人の候補、どれも答えは「どうして裁定できようか」

長梧子は四人とも退けます。みな、すでに一方の側にいるか、両方と合わないかのどちらかで、誰が正しいかを宣言する資格がありません。

私と同じ者に裁かせても、すでに私と同じだ。どうして裁けよう。私とあなたのどちらとも違う者に裁かせても、すでに私たちと違う。どうして裁けよう。

『荘子』内篇「斉物論」(現行テキストから訳出)

そこで長梧子は「私とあなたと他人は、みな互いに知り合えない」と結びます。その出口を彼は「天倪(自然の区切り)で和する」と呼び、伝統的には、物の自然な区切りに沿って応じ、一つの共通の是非を押し通さないことと解します。

本文には、言葉のもう一つの段階づけもあります。

聖人は三種の事について、どう語るか

六合の外

あると認めて論じない

あるとは認めるが、論評はしません。

六合の内

論じても評議しない

道理を述べてもよいが、誰が正しいかは定めません。

『春秋』の世を経る書

評議しても争わない

評してもよいが、争い抜くことはしません。

朝三暮四:名実は欠けず、喜怒が働く

「朝三暮四」は日本語では目先の違いや口先のごまかしのたとえ、中国語では気の変わりやすさも指しますが、『斉物論』での置かれ方は少し違います。話の前に、本文はまず定義を置きます。「心を尽くして物を一つにまとめようとして、もともと同じであることに気づかない。これを朝三という。」

朝三にして暮四猿回しの最初の言い方一日:三 + 四「衆狙みな怒る」朝四にして暮三猿回しの次の言い方一日:四 + 三「衆狙みな悦ぶ」変えたのは言い方で、一日の総数は変わらない
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朝三にして暮四猿回しの最初の言い方一日:三 + 四「衆狙みな怒る」朝四にして暮三猿回しの次の言い方一日:四 + 三「衆狙みな悦ぶ」変えたのは言い方で、一日の総数は変わらない
変えたのは言い方で、一日の総数は変わらない

猿回しが猿に芧(どんぐりの類)を配り、「朝に三つ、夜に四つ」と言うと、猿はみな怒りました。「それなら朝に四つ、夜に三つ」と言うと、みな喜びました。一日の数は変わらず、言い方だけが変わったのです。

名も実も欠けていないのに、喜びと怒りが働く。これもまた「是」に従うということだ。だから聖人は是非で和し、天鈞に休む。これを両行という。

『荘子』内篇「斉物論」(現行テキストから訳出)

伝統的には「両行」を、両方が通ることと読みます。聖人は各側の「是非」を認め、自分は「天鈞」(自然の均衡)に休み、どちらの側にも縛られません。これは両者が同じだと言うのではなく、一方を選んでもう一方を押し倒すことをしない、ということです。

罔両と影、荘周の胡蝶:自分もまた変わっていく

篇の終わりに近く、短い話が二つあります。「視点」を自分自身に向け返す話です。

罔両、影に問う罔両行き、また止まる問う影頼っているか答える頼るものそれも頼るかさらに蛇の腹・蜩の翼なぜ然るか知らず荘周の胡蝶蝶になる気ままに楽しむ目覚めて周に戻るはっきり周そこで分からない誰が誰を夢みたか結び物化必ず区別あり二つの話:一つは「何に頼るか」、一つは「どれが私か」を問う
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罔両、影に問う罔両行き、また止まる問う影頼っているか答える頼るものそれも頼るかさらに蛇の腹・蜩の翼なぜ然るか知らず荘周の胡蝶蝶になる気ままに楽しむ目覚めて周に戻るはっきり周そこで分からない誰が誰を夢みたか結び物化必ず区別あり二つの話:一つは「何に頼るか」、一つは「どれが私か」を問う
二つの話:一つは「何に頼るか」、一つは「どれが私か」を問う

罔両(影の外側の薄い影)が影に問います。歩いたかと思えば止まり、座ったかと思えば立つ。どうして定まった操がないのか。影は答えます。「私は何かに頼って、そうしているのだろうか。私が頼るものもまた、何かに頼ってそうしているのだろうか。」影は形に頼り、形はさらに別のものに頼ります。この「待つ」は、逍遙遊の「待つものがある」と同じ字です。

最後の話は荘周の胡蝶です。

周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で周になったのか、分からない。周と胡蝶とには、必ず分がある。これを物化という。

『荘子』内篇「斉物論」(現行テキストから訳出)

「必ず区別がある」という句に注目してください。周は周、胡蝶は胡蝶で、区別は残り、変わるのは一方から他方への「化」です。「物化」は、伝統的には物が互いに変じ合うことと解されます。先に長梧子も「酒を飲む夢を見る者は、朝には泣く」「大いなる覚めがあって、はじめてこれが大いなる夢だと知る」と言いました。胡蝶は同じ主題の結びです。

全書の中でこの篇を見るには、次の篇へ進んでください。

読んだあとの疑問

『斉物論』は、どんな見方も正しく、何でもよいと言っているのですか。

そうは読めません。本文には「論じても評議しない」「評議しても争わない」という言葉の段階があり、「知らないことの手前で止まるのが最上だ」とも、「是非で和す」とも言います。言うのは、争いに最終の裁き手はいないこと、言葉には限界があることで、区別をすべて取り払ってはいません。

「朝三暮四」は、もともと口先でごまかす話ですか。

本文の重点は少し違います。猿回しが朝三つ夜四つと言うと猿は怒り、朝四つ夜三つと言うと喜びます。総数は同じで、変わったのは言い方です。本文はこれを、猿の喜怒に合わせて言い方を変え、「是非で和す」話へつなげる例として置いています。「口先でごまかす」や中国語の「気が変わりやすい」という意味は、後の成語としての用法です。

胡蝶の夢で、どちらが本物かは決まるのですか。

決まりません。荘周は目覚めてもやはり荘周ですが、周が蝶になった夢か、蝶が周になった夢か分かりません。結びでは周と胡蝶に「必ず区別がある」と言い、この変化を「物化」と呼ぶだけで、どちらかを偽りとは宣言していません。

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この記事を含む学習ルート

資料・出典

  1. 維基文庫・莊子・齊物論(內篇第二) ↗
  2. 維基文庫・莊子・逍遙遊(內篇第一;「有所待」一段) ↗
  3. Chinese Text Project: Zhuangzi (Equalizing Things, inner chapters) ↗

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