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DA-008 / 道家思想

逍遙遊:大鵬と小鳥の争い

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大鵬と小鳥は、それぞれ何を待つか

『逍遙遊』の順に読みます。大鵬と小鳥、宋栄子、列子と進むにつれ、どの層も下の層を笑い、「なお待つものがある」と指摘されます。最後に大きな瓠と樗と「用」を見て、成功法則にはしません。

要点を先に約8分で読めます

『逍遙遊』では、小鳥が大鵬の遠さを笑い、宋栄子は小鳥のように自分を見る人を笑い、風に乗る列子もなお「待つもの」があります。この笑いの連なりをたどると、篇が何を争っているかが見えてきます。

  • 大鵬が九万里に昇れるのは、十分に厚く積もった風があるからです。篇はまずこれを述べ、後の「待つものがある」の伏線にします。
  • 蜩・学鳩・斥鷃は大鵬を笑い、宋栄子は小鳥のように自分を見る人を笑い、列子も「なお待つものがある」。笑いの向きは一段ずつ上がります。
  • 後半は「用」の話です。天下、礼冠、薬の処方、大きな瓠、大きな樗。同じものが、ある人には役立ち、ある人には役立ちません。
18秒で確認:風を待つ大鵬、三つの飛び方と三つの目、寓話を読むときの三つの問い。

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荘子の篇章:内篇・外篇・雑篇、まず地図を見てから原文へ ↗

大鵬も風を待つ

『逍遙遊』は、とても大きな絵から始まります。北の暗い海に魚がいて、名は鯤、その大きさは「何千里あるか分からない」。化して鳥となり、名は鵬、背もまた「何千里あるか分からない」。けれども大鵬が飛び立つ前に、本文はまず、何が必要かを述べます。

階段の図:大鵬を笑う蜩・学鳩・斥鷃から、自分をそう見る一官の士、宋栄子、列子を経て、「天地の正に乗る」者まで、『逍遙遊』の順に一段ずつ上がる。上の三段には本文の評語「なお樹てていないものがある」「なお待つものがある」「何を待とうか」が付く。元の図を開いて拡大する

階段の図:『逍遙遊』の本文の順に並べています。本文が評語を付けるのは上の三段だけで、階段全体を「上へ行くほど待つものが減る」と読むのは、伝統的によく見られる読み方です。

上の図は篇全体の縮図です。ここからは本文の順に、いちばん下の段から読みます。まず大鵬自身です。

水と舟水が浅い大舟は浮かずすると窪みに杯の水芥が舟になる杯なら杯を置く貼りつく風と翼風が薄い大翼を支えずすると九万里に昇る風は足の下そして風に乗り青天そして南へ同じ理を、まず水と舟で、次に風と翼で語る
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水と舟水が浅い大舟は浮かずすると窪みに杯の水芥が舟になる杯なら杯を置く貼りつく風と翼風が薄い大翼を支えずすると九万里に昇る風は足の下そして風に乗り青天そして南へ同じ理を、まず水と舟で、次に風と翼で語る
水と舟:水が浅いと大舟を浮かべられず、堂の窪みに注いだ杯の水には芥しか浮かない。風と翼:風が薄いと大きな翼を支えられず、九万里に昇って風が足の下に来てから、南を目指す。

水が深くなければ、大きな舟は浮きません。堂の前の窪みに杯の水を注げば、芥が舟になりますが、杯を置けば底に貼りつきます。水が浅くて舟が大きいからです。風も同じで、十分に厚く積もってはじめて大きな翼を支えます。

風の積もりかたが厚くなければ、大きな翼を背負うには力が足りない。

『荘子』内篇「逍遙遊」(現行テキストから訳出)

これが篇の最初に現れる「待つ」ことです。いちばん大きな鳥でも、頼るものがあります。後の箇所でそれが「待つものがある」と名づけられます。

蜩・学鳩・斥鷃:三つの飛び方、三つの目

大鵬の志は南の海にあります。それを見た小鳥たちは、それぞれに答えます。

大鵬南をめざす九万里に昇る「六か月飛んでやっと休む」青天を背に南へ蜩と学鳩笑う勢いよく飛ぶ楡や枋まで、届かぬ時も「なぜ九万里も南へ」斥鷃笑う跳ね上がり数仞で下りる蓬や蒿の間を飛ぶ「これが飛ぶことの極み」三つの飛び方、それぞれの「飛ぶことの極み」
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大鵬南をめざす九万里に昇る「六か月飛んでやっと休む」青天を背に南へ蜩と学鳩笑う勢いよく飛ぶ楡や枋まで、届かぬ時も「なぜ九万里も南へ」斥鷃笑う跳ね上がり数仞で下りる蓬や蒿の間を飛ぶ「これが飛ぶことの極み」三つの飛び方、それぞれの「飛ぶことの極み」
三つの飛び方の対照:大鵬は九万里に昇る。蜩と学鳩は勢いよく飛んで楡や枋に着くが、届かない時もある。斥鷃は跳ね上がって数仞で下り、蓬や蒿の間を飛びまわる。

蜩(ひぐらし)と学鳩(小さな鳩)は言います。

私たちは勢いよく飛び立って楡や枋にぶつかるように着くが、時には届かず、地面に落ちるだけだ。どうして九万里も昇って南へ行くのか。

『荘子』内篇「逍遙遊」(現行テキストから訳出)

斥鷃(小さなうずらの類)の言葉も似ています。跳ね上がって数仞で下り、蓬や蒿の間を飛びまわる。それが「飛ぶことの極み」で、大鵬がどこへ行くのか、少しも分からない。本文はこの段に、「これが小と大の弁である」と結びを付けます。

この言葉は、それぞれの立つ場所では成り立ちます。楡や枋、蓬や蒿の間が、彼らの空のすべてだからです。本文の評は「この二匹に何が分かろう」で、立つ場所からは遠くが見えない、ということです。のちに肩吾が連叔に問うところで、連叔はこう言います。「ただ体にだけ聾や盲があるのだろうか。知にもそれがある。」聾も盲も、耳目だけでなく、見識にもあります。

道のりと年月:それぞれの物差し

本文は続いて、二組の数字で「小知」「小年」を具体的に語ります。まず三つの道のりです。

道が遠いほど、備えも多い

近郊へ

三度の食事で帰る

日帰りなら、帰ってもお腹はまだ満ちています。

百里へ

前の晩に穀物を搗く

前の晩のうちに穀物を搗いておきます。

千里へ

三か月かけて蓄える

旅の食糧を、三か月かけて集めます。

道が遠いほど備えも増えます。大鵬の南行も、まず風を積まなければなりません。次は年月です。

生き物\時の感覚区分本文にある時の感覚朝菌小年晦日も朔日も知らない蟪蛄小年春も秋も知らない冥霊大年五百年が一つの春大椿大年八千年が一つの春「小さな知は大きな知に及ばず、短い年は長い年に及ばない」
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生き物\時の感覚区分本文にある時の感覚朝菌小年晦日も朔日も知らない蟪蛄小年春も秋も知らない冥霊大年五百年が一つの春大椿大年八千年が一つの春「小さな知は大きな知に及ばず、短い年は長い年に及ばない」
四つの生き物の時の感覚:朝菌は晦と朔を知らず、蟪蛄は春秋を知らず、ともに小年。冥霊は五百年を春とし、大椿は八千年を春とし、ともに大年。

朝菌は、月に始めと終わりがあることを知らず、蟪蛄は、一年に春と秋があることを知りません。冥霊の一つの春は五百年、大椿の一つの春は八千年です。本文は「短い年は長い年に及ばない」と言います。

最後の一文には皮肉があります。「ところが彭祖は、今や長寿だけで知られ、人々はこれと肩を並べようとする。悲しいことではないか。」「長寿」の物差しも、人の世の物差しにすぎません。

笑いの連なりと、「待つものがある」

さらに進むと、笑いの向きが変わります。蜩・学鳩・斥鷃が大鵬を笑ったあと、本文はこう続けます。

誰が誰を笑うか一官・一郷に適う者自視はこの通り笑われる宋栄子これを笑う誰がまだ待つか宋栄子なお打ち立てていないさらに上列子なお待つものがあるさらに上天地の正に乗る者何を待とう各段は下の段を笑い、続けて本文が「なお」と指摘する
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誰が誰を笑うか一官・一郷に適う者自視はこの通り笑われる宋栄子これを笑う誰がまだ待つか宋栄子なお打ち立てていないさらに上列子なお待つものがあるさらに上天地の正に乗る者何を待とう各段は下の段を笑い、続けて本文が「なお」と指摘する
一官・一郷に適う人は自分を小鳥のように見て、宋栄子に笑われる。宋栄子はなお打ち立てていない、風に乗る列子もなお待つものがあり、天地の正に乗る者だけがもう待たない。

「知が一つの官に適い、行いが一つの郷に並び、徳が一人の君に合い、一国に信を得る者」は、自分のことを「このよう」、つまり蜩や学鳩と同じように見ています。ところが宋栄子は彼らを笑います。世をあげて誉めても励まず、世をあげて責めても沮まず、内と外を分け、栄辱の境をわきまえて、「それだけである」。しかし本文はすぐに続けます。「そうではあっても、なお樹てていないものがある。」

次は列子です。

列子は風に乗って行き、軽やかに良く、十五日たって帰ってきた。……これは歩くことは免れていても、なお待つものがある。もし天地の正に乗り、六気の変を御して無窮に遊ぶ者なら、彼はまた何を待とうか。

『荘子』内篇「逍遙遊」(現行テキストから訳出。一文を省略)

列子は風に乗って十五日で帰ってきます。歩くことは免れても、風は要ります。「待つ」の字は、篇全体で二度だけ、この段に出てきます。「なお待つものがある」と「何を待とうか」です。すぐ後の「至人は己なく、神人は功なく、聖人は名なし」は、伝統的には三つの段階と読む人も、一つの境地の三つの言い方と読む人もいます。本文は三句を並べているだけです。

同じ物でも、誰の目に役立つか

後半は鳥を離れ、人と物に移ります。問いは同じで、役立つかどうかは誰の目で決まるのか、です。

物\見方物一方はこう使う他方はこう見る①天下堯:許由に譲りたい許由:天下の使い道なし②章甫宋人:越へ運ぶ越人:断髪文身で無用③あかぎれ薬客:呉王に献じ封土を得る宋の一族:絹洗いで数金④大瓠荘子:大樽で江湖に浮く恵子:大きすぎて入らぬ⑤大樗荘子:無何有の郷に植える恵子:匠は見向きもせぬ同じ物が、一方には役立ち、他方には役立たない
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物\見方物一方はこう使う他方はこう見る①天下堯:許由に譲りたい許由:天下の使い道なし②章甫宋人:越へ運ぶ越人:断髪文身で無用③あかぎれ薬客:呉王に献じ封土を得る宋の一族:絹洗いで数金④大瓠荘子:大樽で江湖に浮く恵子:大きすぎて入らぬ⑤大樗荘子:無何有の郷に植える恵子:匠は見向きもせぬ同じ物が、一方には役立ち、他方には役立たない
五つの例:天下は堯が許由に譲りたいが許由には使い道がない。章甫は宋人が越へ運ぶが越人には無用。あかぎれ薬は呉王に献じて封土を得るが宋の一族は絹洗いにしか使わない。大瓠は荘子が大樽にして恵子は大きすぎるとする。大樗は荘子が無何有の郷に植え、匠は見向きもしない。

いちばん重い話は、あかぎれ薬です。同じ処方で、宋のある一族は代々絹を洗って暮らし、得るのは「数金にすぎない」。ところが百金で買った客は、それを呉王に献じました。越が攻めてくると呉王は彼を将に任じ、彼は冬の水戦で越を大破して、封土を得ました。本文はこう結びます。

あかぎれを防ぐ点では同じだが、ある者は封土を得、ある者は絹洗いを免れなかった。使い道が違ったのである。

『荘子』内篇「逍遙遊」(現行テキストから訳出)

恵子が大瓠を「大きすぎて入るものがない」と言うと、荘子は「大樽にして江湖に浮かべたら」と勧めます。許由の答えには小さな動物が二つ出てきます。「みそさざいは深い林に巣をかけても、一本の枝にすぎず、もぐらは川の水を飲んでも、腹いっぱいにすぎない」。それぞれが求めるのは、枝一本、腹一杯の分だけです。

篇の最後で、荘子は恵子に、大樗を「無何有の郷、広莫の野」に植え、そばを「さまよい」、木の下で「逍遙」し「寝そべる」ようにと言います。「逍遙」の二字は、篇の本文ではここに一度だけ現れ、誰も欲しがらない大木の下にあります。

続けて読むなら、次の三篇です。

  • 荘子の篇章:この篇が全書のどこにあるか。
  • 斉物論:異なる視点がどう出会うか。
  • 足るを知る:許由の「一本の枝」「腹いっぱい」との読み比べ。

読んだあとの疑問

「逍遙遊」の「逍遙」は、好きな所へ行くことですか。

本文はそう書いていません。「逍遙」の二字が本文に出るのは最後の一段だけで、大木のそばをさまよい、木の下に寝そべる場面です。前の「無窮に遊ぶ」は、もう何も待たないことが条件です。気ままに、という読みは後世の借用です。

荘子は大鵬のほうが小鳥より優れていると言っているのですか。

本文には「小さな知は大きな知に及ばず、短い年は長い年に及ばない」とありますが、大鵬自身も風を待っています。伝統的な読みは二つあります。大小それぞれが性に適って同じように自在だとする読みと、大小の別を越えてこそ何も待たないとする読みです。どちらも本文に根拠があり、ここでは並べるだけにします。

「無用の用」は、何もしなくてよいという教えですか。

本文が扱うのは見方です。恵子は瓠と樗を役に立たないと見て、荘子は瓠に別の使い道を示し、樗は「無何有の郷」に残します。無用を美徳として勧めてはいません。「寝そべる」は現代人が借りた言い方で、この話の位置づけとは違います。

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この記事を含む学習ルート

資料・出典

  1. 維基文庫・莊子・逍遙遊(內篇第一) ↗
  2. Chinese Text Project: Zhuangzi (Free and Easy Wandering, inner chapters) ↗

続けて読む

荘子の篇章:内篇・外篇・雑篇、まず地図を見てから原文へ ↗

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