逍遙遊:大鵬と小鳥の争い
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『逍遙遊』の順に読みます。大鵬と小鳥、宋栄子、列子と進むにつれ、どの層も下の層を笑い、「なお待つものがある」と指摘されます。最後に大きな瓠と樗と「用」を見て、成功法則にはしません。
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『逍遙遊』では、小鳥が大鵬の遠さを笑い、宋栄子は小鳥のように自分を見る人を笑い、風に乗る列子もなお「待つもの」があります。この笑いの連なりをたどると、篇が何を争っているかが見えてきます。
- 大鵬が九万里に昇れるのは、十分に厚く積もった風があるからです。篇はまずこれを述べ、後の「待つものがある」の伏線にします。
- 蜩・学鳩・斥鷃は大鵬を笑い、宋栄子は小鳥のように自分を見る人を笑い、列子も「なお待つものがある」。笑いの向きは一段ずつ上がります。
- 後半は「用」の話です。天下、礼冠、薬の処方、大きな瓠、大きな樗。同じものが、ある人には役立ち、ある人には役立ちません。

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大鵬も風を待つ
『逍遙遊』は、とても大きな絵から始まります。北の暗い海に魚がいて、名は鯤、その大きさは「何千里あるか分からない」。化して鳥となり、名は鵬、背もまた「何千里あるか分からない」。けれども大鵬が飛び立つ前に、本文はまず、何が必要かを述べます。
階段の図:『逍遙遊』の本文の順に並べています。本文が評語を付けるのは上の三段だけで、階段全体を「上へ行くほど待つものが減る」と読むのは、伝統的によく見られる読み方です。
上の図は篇全体の縮図です。ここからは本文の順に、いちばん下の段から読みます。まず大鵬自身です。
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水が深くなければ、大きな舟は浮きません。堂の前の窪みに杯の水を注げば、芥が舟になりますが、杯を置けば底に貼りつきます。水が浅くて舟が大きいからです。風も同じで、十分に厚く積もってはじめて大きな翼を支えます。
風の積もりかたが厚くなければ、大きな翼を背負うには力が足りない。
これが篇の最初に現れる「待つ」ことです。いちばん大きな鳥でも、頼るものがあります。後の箇所でそれが「待つものがある」と名づけられます。
蜩・学鳩・斥鷃:三つの飛び方、三つの目
大鵬の志は南の海にあります。それを見た小鳥たちは、それぞれに答えます。
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蜩(ひぐらし)と学鳩(小さな鳩)は言います。
私たちは勢いよく飛び立って楡や枋にぶつかるように着くが、時には届かず、地面に落ちるだけだ。どうして九万里も昇って南へ行くのか。
斥鷃(小さなうずらの類)の言葉も似ています。跳ね上がって数仞で下り、蓬や蒿の間を飛びまわる。それが「飛ぶことの極み」で、大鵬がどこへ行くのか、少しも分からない。本文はこの段に、「これが小と大の弁である」と結びを付けます。
この言葉は、それぞれの立つ場所では成り立ちます。楡や枋、蓬や蒿の間が、彼らの空のすべてだからです。本文の評は「この二匹に何が分かろう」で、立つ場所からは遠くが見えない、ということです。のちに肩吾が連叔に問うところで、連叔はこう言います。「ただ体にだけ聾や盲があるのだろうか。知にもそれがある。」聾も盲も、耳目だけでなく、見識にもあります。
道のりと年月:それぞれの物差し
本文は続いて、二組の数字で「小知」「小年」を具体的に語ります。まず三つの道のりです。
道が遠いほど、備えも多い
三度の食事で帰る
日帰りなら、帰ってもお腹はまだ満ちています。
前の晩に穀物を搗く
前の晩のうちに穀物を搗いておきます。
三か月かけて蓄える
旅の食糧を、三か月かけて集めます。
道が遠いほど備えも増えます。大鵬の南行も、まず風を積まなければなりません。次は年月です。
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朝菌は、月に始めと終わりがあることを知らず、蟪蛄は、一年に春と秋があることを知りません。冥霊の一つの春は五百年、大椿の一つの春は八千年です。本文は「短い年は長い年に及ばない」と言います。
最後の一文には皮肉があります。「ところが彭祖は、今や長寿だけで知られ、人々はこれと肩を並べようとする。悲しいことではないか。」「長寿」の物差しも、人の世の物差しにすぎません。
笑いの連なりと、「待つものがある」
さらに進むと、笑いの向きが変わります。蜩・学鳩・斥鷃が大鵬を笑ったあと、本文はこう続けます。
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「知が一つの官に適い、行いが一つの郷に並び、徳が一人の君に合い、一国に信を得る者」は、自分のことを「このよう」、つまり蜩や学鳩と同じように見ています。ところが宋栄子は彼らを笑います。世をあげて誉めても励まず、世をあげて責めても沮まず、内と外を分け、栄辱の境をわきまえて、「それだけである」。しかし本文はすぐに続けます。「そうではあっても、なお樹てていないものがある。」
次は列子です。
列子は風に乗って行き、軽やかに良く、十五日たって帰ってきた。……これは歩くことは免れていても、なお待つものがある。もし天地の正に乗り、六気の変を御して無窮に遊ぶ者なら、彼はまた何を待とうか。
列子は風に乗って十五日で帰ってきます。歩くことは免れても、風は要ります。「待つ」の字は、篇全体で二度だけ、この段に出てきます。「なお待つものがある」と「何を待とうか」です。すぐ後の「至人は己なく、神人は功なく、聖人は名なし」は、伝統的には三つの段階と読む人も、一つの境地の三つの言い方と読む人もいます。本文は三句を並べているだけです。
同じ物でも、誰の目に役立つか
後半は鳥を離れ、人と物に移ります。問いは同じで、役立つかどうかは誰の目で決まるのか、です。
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いちばん重い話は、あかぎれ薬です。同じ処方で、宋のある一族は代々絹を洗って暮らし、得るのは「数金にすぎない」。ところが百金で買った客は、それを呉王に献じました。越が攻めてくると呉王は彼を将に任じ、彼は冬の水戦で越を大破して、封土を得ました。本文はこう結びます。
あかぎれを防ぐ点では同じだが、ある者は封土を得、ある者は絹洗いを免れなかった。使い道が違ったのである。
恵子が大瓠を「大きすぎて入るものがない」と言うと、荘子は「大樽にして江湖に浮かべたら」と勧めます。許由の答えには小さな動物が二つ出てきます。「みそさざいは深い林に巣をかけても、一本の枝にすぎず、もぐらは川の水を飲んでも、腹いっぱいにすぎない」。それぞれが求めるのは、枝一本、腹一杯の分だけです。
篇の最後で、荘子は恵子に、大樗を「無何有の郷、広莫の野」に植え、そばを「さまよい」、木の下で「逍遙」し「寝そべる」ようにと言います。「逍遙」の二字は、篇の本文ではここに一度だけ現れ、誰も欲しがらない大木の下にあります。
続けて読むなら、次の三篇です。
読んだあとの疑問
「逍遙遊」の「逍遙」は、好きな所へ行くことですか。
本文はそう書いていません。「逍遙」の二字が本文に出るのは最後の一段だけで、大木のそばをさまよい、木の下に寝そべる場面です。前の「無窮に遊ぶ」は、もう何も待たないことが条件です。気ままに、という読みは後世の借用です。
荘子は大鵬のほうが小鳥より優れていると言っているのですか。
本文には「小さな知は大きな知に及ばず、短い年は長い年に及ばない」とありますが、大鵬自身も風を待っています。伝統的な読みは二つあります。大小それぞれが性に適って同じように自在だとする読みと、大小の別を越えてこそ何も待たないとする読みです。どちらも本文に根拠があり、ここでは並べるだけにします。
「無用の用」は、何もしなくてよいという教えですか。
本文が扱うのは見方です。恵子は瓠と樗を役に立たないと見て、荘子は瓠に別の使い道を示し、樗は「無何有の郷」に残します。無用を美徳として勧めてはいません。「寝そべる」は現代人が借りた言い方で、この話の位置づけとは違います。
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